-003.銭湯と自転車の京都

"こどものころ Childhood " 1999  watercolor, ink and collage on paper 
"こどものころ Childhood " 1999  watercolor, ink and collage on paper 

ちいさなわたしはみどりちゃんや久美ちゃんと近所の銭湯へ行くのがたまらなく好きだった。

それは大好きなお姉さんたちとの時間、おませな時間。

パパやママといるよりもずっと刺激的な大人ごっこドキドキの時間であった。

 

みどりちゃんや久美ちゃんは高校卒業まもなく上京し、うちから歯科助手の学校に通いつつ下條歯科室に住み込みで働いていた。

遠く長崎から来た色白のみどりちゃんは、恥ずかしがりやの乙女。

ギターが上手く、よく小さな声で「神田川」の弾き語りを聴かせてくれた。

流行りのものに詳しい深谷出身の久美ちゃんは「ママやパパに内緒よ」と院長の娘である私を軽く脅し、隠れてタバコを吸っていた。

ジュリーが婚約したときは相当ショックだったのか、ガス自殺未遂を起こしちゃうほどエキセントリックな人だった。

みどりちゃんや久美ちゃんからは、大人のシャンプーの香りがしていた。

 

三鷹駅前通りの日の出湯はうちから歩いてすぐだった。

能天気な富士山の絵の麓に天然色の赤と緑の泡がブクブクしていた。熱いけどがまんして入った。

久美ちゃんは「じゅうううう、きゅううううう」と数を長ーーーーく数えるからずるいと思った。

女湯の脱衣所には昔ながらのおかま式のドライヤー椅子が2つ3つ並んでいた、と思う。

壁を彩る町内のお店の看板の中に、もうとっくの昔に閉めてしまったママの店「ピンク美容室」の看板がいつまでもあった。

中央のガラスケースの中にはお風呂グッズと一緒にセルロイドの石けん箱や櫛が並んでいた。

キャンディ色のエメロンクリームシャンプーとリンスはお姉さんの証し、憧れだった。

「ふりむかないで~」というムード歌謡にあわせ髪の毛をバサッとするCMのマネをしてよく遊んだ。

私はマミーを飲みながら、みどりちゃんたちが体重計に乗ったり降りたりしてクスクス笑いあうのを眺めていた。

 

私は今、その頃と同じくらいのドキドキで、さらに刺激的な大人ごっこをしながら京都という町で銭湯へ行っている。

ひとりで、よく知らない町で、みどりちゃんたちが暮らしていたような四畳半の下宿部屋から、自転車に乗って。

でも、よく知らないけれど、道に迷ってばかりいるけれど、実はこの町にはこどもの頃の記憶がたくさんつまっている。

みどりちゃんと久美ちゃんと三鷹の銭湯に行っていた頃から、京都にはパパとママに連れられてよく来ていた。

 

2年前、震災後、日本がとても心配で、恋しくて、NYから「なにか」を確かめに帰って来た。

その「なにか」はとても個人的なもので、同時に普遍的なもので、うまく言葉で説明はできない。

少なくとも、今はまだできない。

東京の中央線沿いには、ほんとうにすこしだけど、まだこどもの頃の原風景、

私にとっても東京の、永遠の谷内六郎画伯的な夕日の色は確かに残っていた。

でも、変わらないものより変わってしまったものの方が多くて、仕方ないんだろうけど、せつなくもなった。

景色も、人の行動も、エネルギーも、移ろゆくからこそ自然なものであるのだけれど。

 

吉祥寺には今でもあの蒲鉾屋さんやメンチカツ屋さんはあったけど、中高生の私がほぼ毎日通ったソニプラはもうなかった。

中学の頃、友だちがソニプラの奥にあったソーダ・ファウンテンで働くサーファーのお兄さんに恋をしていた。

彼女はお兄さんに会いたいがため、毎日そこでフルーツパンケーキを食べることに命をかけ、そのために校則破ってアルバイトまでしていた。

彼女の大人びた情熱と誰にも文句を言わせない行動にはいつも目を見はるものがあった。

私は一緒にそこでよくフルーツゼリーを食べた。

アメリカンなJELL-Oの色は日の出湯の泡風呂の赤と緑に似てた。

透きとおった原色。LITE-BRITE(知ってる?テレビに刺して遊ぶの)の原色。

ちなみにその友だち、前は31アイスクリームのお兄さんに恋してたから、とうぜん私も31種類、制覇した。

1980年頃の吉祥寺31店内には、

アイスクリーム31種類の味がイラストで描かれたアメリカBaskin & Robbinsの看板がずらーっと飾ってあり、

私がそこから受けた影響はソニプラ輸入グッズとともに多大。

PEANUTSやセサミ・ストリートのお子ちゃま世界から

Goodyの髪留めやBonneBellのチェリー味リップグロスとかティーン時代へ移行した頃。

 

話がそれちゃった。

 

2年前、私は「なぜか」京都に行きたくなった。

その「なぜか」はまったく説明できない。

いつか、説明できるのかもわからないし、どうでもいい。

でも、確かなのは、あの時「なぜか」京都に行っていなかったら、

特別な想いを描いた絵を法然院という特別なお寺で特別な日に発表することになっていなかったと思う。

3月11日からの想いの絵を、2年後の3月11日から、11年ぶりの日本で、

「メメント・モリ」(終わるからこそ今を生きる)というテーマで個展、とはならなかったと思う。

 

すべては「なぜか」からはじまり、

「直感」と「縁」が紡いでゆく「奇跡的な偶然」の連続に導かれ、

今こうして私は不思議な運命のタイムカプセルに迷い込んでいる。

 

祇園からほろ酔い気分で左京区まで自転車で帰る途中、

いきなり平安時代がバーンと目の前に現れるような地で迷う。

柊屋さんの黒塀に鮮やかな朱で描かれた鳥居の意味に驚いたこどもの頃、

そんな私がちいさな路地からピョコンと顔を出しつつも、

Rudy(愛犬)と大文字山や疎水沿いを歩く未来の私がちらりと見える。

この際、この過去と未来が交差する太古の都の宇宙にとことん迷いこむことにした。

 

で、思う。

またまた来てしまったのか、わたしのいつもの「あれ」。

『人生とは、何かを計画しているときに起きてしまう別の出来事のこと』

そんなことを、銀閣寺近くの銭湯の薬草湯につかりながら今日も思う。

 

今日も思う。

京もおもふ。

もののあはれ。

 

まじで。

column by 下條ユリ /  Yuri Shimojo
ボヘミアンな画家
丙午の春、東京都三鷹市生まれ
”売れっ子イラストレーター”時代の’96年にあっさり渡米
以来、ブルックリンとマウイの秘境という両極なジャングルで暮らしている
www.yurishimojo.com
波瀾に富んだ生い立ちの記『ちいさならくがき』(たまうさぎbooks)は知る人ぞ知るカルト本して復刊
おとなびたこどもたちへ捧げる『ちいさなわたしと今のわたし』連載スタートと同じくして
こどもじみたおとなたちへ捧げる『絵そらごと』(CLUBKING)の連載もスタート
震災後1年目のインタビュー『ニューヨークで感じたafter 311』