-002.ブルージーンズ コボリ

大阪市阿倍野区、こんな所にヨーロッパ風レンガ造りのハイカラな建物がある。丸いアーチ型の正面玄関から仰ぎ見ると古ぼけた時計台が大阪の空にぽっかりと浮かんでいる。はて、時計が動いていたかどうかは、憶えていない。。。その大阪市立工芸高校の校舎が僕の高校時代の甘酸っぱい想い出の学び舎で、僕は金属工芸科に入学をした。1923年に設立され、伝統的な手工芸を専門的に教える学校として、大阪の地元産業と密接に結びつき、戦後の大阪に多くの働き手を送り出した。

僕は古びたヨーロッパ風の建物と、胸に立派なエンブレムのあるアイビー風の制服という組み合わせが好きで、ネクタイをきっちりして、コインローファーやボタンダウンシャツをあわせて、気分はもうオックスフォードアイビーだった。

ただ、専門の授業が始まると、そのブレザーをベージュ色の作業服の上下に着替えなくてはならない。まるで全員が監獄での強制労働が始まったがごとく、いろいろな道具を抱え、作業室へ散らばる。囚人となる生徒が選択できるコースとしては、
①板金 板状の金属を金槌等で叩き成形する技術  
②彫金 材料をタガネ等で彫刻する技術
③造形 金属加工機械を使っての造形技術
④鋳金 溶解した材料を鋳型に流し込む成形技術
の4つがある。

 

僕は、3年生の最後に鋳金を選んだ。
この学校で専門職を教える教師陣は、職人気質であまり多くを語らない堅物的な人物ばかりでしたが、鋳金を教えるコボリ先生は、その堅物先生の中でも気さくなタイプで、どちらかと言えばおしゃべりな方だったと記憶する。女の子にもすこぶる人気があった。白髪のまじったヒゲをたくわえ、その毛並みの良さがどうも、ヨーロッパの画家を思わせ、僕はその風貌をとても気に入っていた。

もっと気に入っていたのは、彼の作業場である鋳金室。そこには、(ちょっと大げさだけれど)自然の材料が完全に還元できるシステムがあった。詳しく書くと、鋳金で使用する鋳型には土を使っていましたが、その土は、原型に近い粒子の細かい土から、外側へむかって、3段階くらいに荒さの段階がある。(何段階だったかはあやふや)僕たちが使う土は、一学年先輩がすでに使った鋳型(土のかたまり)を太い鉄棒で解体し、粒子の大きさ順に篩い分け、最後は泥のようなしっとりとした粘土質まで分解をする。材料の土はそうやって還元され、長く大切に使われてきました。そういうアトリエの秩序や材料や道具への配慮に神聖なものを感じた。

生徒たちは、まず粘土で原型を作り、次にその原型に一番粒子の細かい泥土を塗り、次に篩い分けた逆段階に序々に荒い土で成形をしていく。最後はゴツゴツした土のかたまりとなる。強度を増すために入れた金属フレームは重さを倍増している。大きな鋳型が完成するまで 2、3ヶ月かかり、注入口から熱して溶けた金属を流し込んで成形をする。これが鋳金という技法。 身近なものでいうと、ル・クルーゼの鍋なども同じ技法で作られている。

さて、とうとう囚人たちの鋳型も完成の日を迎えた。注入口を上にむけて並べられた土の鋳型が、飛鳥の古墳の発掘現場のような佇まいで、熱い金属を呑み込むのを静かに待っている。室内はいつもよりも静かで、いつもよりも暑い。鋳金室に設置された小さな溶鉱炉で材料の銅が融点を超え、トロトロと溶けているらだ。そして先生は、あまり喋らない。そして、いつもは僕達と同じ囚人服を着ているのに、何故か今日はブルーのジージャンを羽織っている。襟がピッとたっている。その小さなブルーの背中から強烈な緊張感とかオーラが感じとられ、ちょっとビビった。誰も喋らず、ただ、先生のやるがままを真似て、溶鉱炉から溶けた金属をすくい上げ、それぞれの鋳型へついでいった。皆それぞれビビってたのかなー?

大きな鋳型を2つに分解し、中から奇麗に成形された金属がでてきた感動は今でも忘れまい。
赤い光を放った熱い金属も、今は冷たく静かに土の中にいる。
そうやって手の感触から多くの感覚を身につけ、学習をさせていただいた。

それから14年が経った。ちょうどその頃、僕と家内は無謀なパリでの生活を始めていた。サバイバルな毎日だった。そんなある日、そのコボリ先生がパリに来られるという連絡をいただいた。当時は金沢の美術工芸大学で教鞭をとられていた。奥様を連れてのご旅行でした。僕達は、滞在されているホテルの近所のこざっぱりしたベトナム料理屋を予約し、夕食をご一緒させていただいた。コボリ先生が若い頃に、パリで画学生をやっていた事実や、パリの昔と今、そしてパリで奥さんと知り合ったんだよ!というような話を伺った。まるで、今の自分のようだなーとも感じた。そして、彼のヒゲがヨーロッパの画家の雰囲気がある理由もよくわかった。フランス仕込みだったんだ。

僕が彼の授業で作ったのは、デコイという鴨のオブジェ。もともとは狩猟の囮に使うもので、今はインテリアとして彩色を施したものがある。鴨は今もパリの我が家にいて、時々ネコのビールが枕にして昼寝をしています。
ps コボリ先生以外にも、金属工芸科の先生方には、モノ作りの原点を教えていただきました。ここに感謝申し上げます。

父の教訓② ヒゲはやっぱりフランス仕込み。

column by 畠井武雄/Hatai Takeo
アートディレクター、アニメーションディレクター、ウェブデザイナー、いろんな顔を持つ虹色クリエーター。(特にピンク)
2000年渡仏。2003年 コンピュータグラフィクススタジオ Le pivot (ルピヴォ)設立
キャラクターアニメーション、モーションデザインなどに特化し、独自の愛らしい世界観を確立している
2011年、新部門である、p-2-i (ピーツーアイ)をスタート
Le pivot の持つ映像技術と、ウェブ、モバイルテクノロジーの融合を可能にし、

温かみのあるインタラクトコミュニケーションを多岐に渡り展開する
http://lepivot.com