-005.ブラックバンバン・アウトバーン・ホリバタ


二十歳(はたち)の春、僕は完全に途方に暮れていた。
人生この上ないアウトローな生活の始まりから2年。芸大受験 3度目の正直に失敗し、全く行き場を失っていた。
脱・力・感、、、全く力が抜けてる感である。※この1行には何の意味もないね。

183cmの全身から完全脱力した1週間、何かをどうにか考え、人生のシュミレーションをいろいろしたんだと思うけれど、今になってはあまり憶えていない。
気がついたら、僕は神戸行きの電車の中だった。
僕は両親に頭を下げ、コンピュータグラフィックスを学べるという2年制の専門学校に行かせて欲しいとお願いした。
僕も両親も誰も、それが何なのか、将来どうなるのか、何も判らなかった。だからYesもNoもなかった。
神戸の小さいビルの1フロアだけの学校だった。学長さんが部屋を案内してくれ、コンピュータグラフィックスを作れるという機械を見せてくれた。
NEC98が18台並んでいた。そしてその日、僕は一番最後の18番目の生徒としてギリギリ滑り込んだ。来週から授業が始まる。
二十歳の春、自身のこの上ない強運と支えてくれる父母に深く感謝する @阪神神戸線三宮駅。

小さい専門学校ではあったが、情報処理科、建築CAD科、コンピュータグラフィックス科、コンピュータミュージック科、秘書科があった。
一般教養などの授業も盛り込まれ、即戦力養成を目指している好感のもてる校風だった。
講師陣もつぶぞろいで個性に富んでいた。
学生は広く関西全域、西は姫路、東は三重から集まっているようで、神戸の海辺に学生寮がある。と言ってもマンションの数部屋だが。

僕は大阪の実家から、約2時間かけて電車通学をしていた。表題のブラックバンバン・アウトバーン・ホリバタ氏は和歌山県出身で、寮生活をしていた。
彼は僕らの隣クラスで、コンピュータミュージック科の生徒だった。科には4人しかいない。シンセが4台しかないのか?

YMO好きの僕らは、すぐに打ち解け合い、金曜日の夜は、学生寮から実家に帰るというので、彼の愛車である黒塗りのバンで大阪を経由して和歌山まで下った。

その車内で僕は素晴らしいものに遭遇する。

クラフトワーク、ディーヴォ、テレックスにウルトラヴォックス。ヨーロッパの初期テクノミュージックの素晴らしいカセットテープライブラリーだ。
アナログシンセサイザーが醸し出す、絶妙な機械のピコピコサウンドを堪能しながら、黒塗りのバンで尼崎や大阪の工業地帯を横目にアウトバーン(※1)を突っ走る。
(※1 アウトバーンは1974年に録音されたクラフトワークの4枚目のアルバム。
現代音楽をよりポピュラーなテクノミュージックへ昇華させた音楽史上重要なアルバム。ドイツ語で(速度無制限の)高速道路の意味)
でも厳密には、僕たちはお金がなかったのでアウトバーン(阪神高速)の下を走っていた。

YMOを聴き、プラスチックスやPモデルに酔い、時には戸川純の玉姫様を彼が熱唱し、その合間に、彼のオリジナルのテープを聴いた。
和歌山の自宅で録音されたそのテクノミュージックは、ヨーロッパのどれよりも機械的でテクノデリック(※2)だった。
(※2 テクノデリックは1981年に録音されたYMOの6枚目のアルバム。テクノ+サイケデリックの造語。畠井はテクノ的でかっこいい場合にのみ使用する)

そんなある日、彼は何も言わずに学校を退学した。

「そんなん、プロなんかなってもメシ食ってけるかぁ~」

彼は相変わらずクールで、サイケデリックなリアリストだ。

彼は家業の廃材リサイクル業を継ぎ、大型クレーンをロボット感覚で操った。
休日に稼いだお金ですでに一戸建てのマイホームを建て、自宅には、アナログシンセサイザーの名器がシーケンサーに繋がれていた。立派なスタジオだった。
彼にはすでに素晴らしいオリジナルのトラックがたくさんあった、

僕には家も機材も作品も、何も無かった。

彼に言われて初めて現実的な響きとなった「僕はプロになるんか?」

テレビ?、広告?、ゲーム?、雑誌?、マスコミ?、デザイン?、建築?、ミュージックビデオ?、マルチメディア?、映画????、んで?
人生の羅針盤がくるくる周り続けて催眠術にかかりそうだった。

僕は、旅の目的地の地図を手探りで作るように、自宅のVHSでドイツの実験映像(ズビグニュー・リプチンスキー)、チェコのアートアニメ(ヤン・シュヴァンクマイエル)、イギリスの暗いアニメ(ブラザーズ・クエイ)やストップモーションのスレッジハンマー(ピーター・ガブリエルのPV) などをコマ送りで見た。
映画館でデビット・リンチやピーターグリーナウェイを見てどんよりした気分になり、家に帰ってきてYMOを聴いた。

そんな木曜日夜9時、新番組「とんねるずのみなさんのおかげです」がスタートした。そして、そのオープニングアニメーションを観て、僕は画面に釘付けになった。テクノデリックだった!
いや、正式に言うとテクノでもなく、コンピュータグラフィックスでもなく、粘土で造形された手作りなアニメーション、クレイアニメーションだった。
もちろんクレイなんて言葉も知らなかったが、「何だこりゃ!」という興奮があった。形容する言葉がないのでテクノデリックだった。
番組の終わりには、丁寧に「アニメーションスタッフルーム」という制作会社のクレジットが入っていた。全部カタカナなのが妙に格好良いと思った。
あまりにも横スクロールが速く、社名が長くて読めなかったが、後日、VHSのコマ送りで確認した。

「プロになるんか?」はさておき、まずはココの会社に入ることにした。だって他の選択肢は何も無かった。

それから数ヶ月、寝ても覚めてもNEC98の前で、テクノデリックなデザインを産み出すために格闘した。
コンピュータグラフィックスをNEC98で計算するのは想像以上に時間のかかるものだった。
学校のNEC98には、ハードディスクが付いてなかった。完成した画像は、5インチのフロッピーディスクに直接保存した。
毎日1枚2枚と、、、フロッピーが無くなると計算できても保存ができない。ので、神戸新聞社でアルバイトをしてフロッピーを買った。

家では例のドイツやチェコなどヨーロッパの暗いアートアニメを観た。
ピンクフロイドの社会派のアニメーション「ザ・ウォール」もその頃出会った。それも相当暗かった。
いろいろ見るたびに、自分の作品を修正した。
そんな暗い作品のいろいろなオマージュが散りばめられた、どちらかというと派手な作品が出来上がった。

3分のアニメーションは、東京の会社の面接試験ギリギリ前日に間に合った。NEC98は遅過ぎた。
強運なのだが、いつもギリギリなのでハラハラする。

面接会場でみなさんの前でVHSテープが再生された。

どうにもこうにも恥ずかしくて自分では画面を直視できなかった、目はつむってないが、何も見えてなかった。。。
耳は塞いでないので音だけは鮮明に聴こえてきた。

たたみかけるようなテクノなドラムとアナログシンセのベースラインがアウトバーン・ホリバタらしいテクノミュージックに仕上がった。

ブラックバンバン・アウトバーン・ホリバタは学校を辞めてしまったが、この数ヶ月、僕の初産に付き添ってくれた。素晴らしいテクノを産み出した。
やっぱり彼のテクノデリックには敵わないと面接会場で想った。彼こそプロだ!
本当にありがとう。

願わくば、おじいちゃんになってからでもいいから、二人の愛のファーストアルバムでも作ろうではないか!?


父の教訓⑤ 男も出産、プロの苦しみいつまでも。

column by 畠井武雄/Hatai Takeo

アートディレクター、アニメーションディレクター、ウェブデザイナー

いろんな顔を持つ虹色クリエーター(特にピンク)
2000年渡仏。

2003年 デザインスタジオ Le pivot (ル・ピヴォ)設立


モーションデザイン、ウェブデザイン、ブランディングデザインに特化し、独自の愛らしい世界観を確立している
http://lepivot.com